明智光秀と細川家との戦乱の中の絆を巡る―ゆかりの地 京都 丹波・丹後 ―
明智光秀がゆかり深い京都の丹波・丹後地方を巡る[PR]
細川忠興とガラシャ
―戦乱の波に翻弄された光秀の娘夫婦
忠興とガラシャの苦悩
明智光秀の娘・玉(洗礼名・ガラシャ)は、光秀と妻・煕子(ひろこ)が越前(福井県)に住んでいたころ、その三女として生まれたという。
天正6年(1578)、光秀は織田信長に仕え、主命により細川氏の嫡男・忠興に娘を嫁がせる。祝言の場は勝龍寺城(長岡京市)。
このとき勝龍寺城は細川氏の居城だった。天正8年に丹後・宮津へ移るまでの2年間、忠興とガラシャ夫妻はここで新婚生活を過ごしている。
天正10年、光秀が本能寺の変で信長を討った。光秀は娘の嫁ぎ先である細川家に加勢を求めたが、幽斎と忠興はこれを拒絶。
明智の血をひくガラシャを人目のつかない味土野(京丹後市弥栄町)に軟禁してしまう。現在、ガラシャが2年間幽閉された女城の跡地には「細川忠興夫人隠棲地」と刻まれた記念碑が残る。
とはいえ、忠興はガラシャを大切に思っていたようだ。この軟禁時代にも会っていたようで、次男の興秋(おきあき)などをガラシャは出産している。
夫・忠興は隠居した幽斎に代わって宮津城主となり、一大名となった。光秀を討った豊臣秀吉が天下を掌握すると、その忠臣となって働き、丹後一国を領する大名に出世した。
秀吉死後の慶長5年、関ヶ原の戦いが起きると、幽斎も忠興も徳川方への参戦をいち早く表明した。合戦当日の忠興は東軍主力として大活躍を見せる。
一方、幽閉を解かれたガラシャは大坂の細川屋敷に住み、洗礼を受けてキリシタンに改宗していた。
関ヶ原の開戦前、西軍は大坂屋敷に住む諸大名の妻子を人質に取ろうとした。ガラシャも連れ去られそうになるが、人質となることを拒んで自ら命を絶ってしまった。
戦後、論功行賞(ろんこうこうしょう)で丹後12万石から豊前(ぶぜん)国中津33万9000石に国替え(のちに熊本54万石)となり、忠興は見事に大大名の仲間入りを果たしたのである。幕末まで熊本を統治し続けた名族・細川氏の成功の陰には、光秀・ガラシャという明智父子の悲劇があったのだ。
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